HOW COLD IS A STRAWBERRY?

副題:いちご(15)の温度                                          以前住んでいた東京の友人へ送るメールの形で、学校生活中心に日々を綴る15歳のブログ。現在、京都在住。    書き始めは標準語だが、いつの間にか京都弁に変わってしまう。                        父親が娘の生活をこっそり見る気分になれる感じ。今のところ、1,200文字。

ホワイトデーの白さ

 こっこ、元気?

ホワイトデーが過ぎたね。

男子のお母さま方すみません。ただただお詫びします。とはうちの母。何せ娘(私)が嬉し気に持って帰ってきたのは、某有名メーカーのラスク詰め合わせ、凝ったキャンディーセットに、クッキー入りの麗しい小箱等々…お金も選ぶ時間もかかっていそうなものばかりだったから。

当然男子が単体でこんなものを用意できる訳がなく、お母さんの活躍で成り立っているに違いない…。毎年バレンタインデーのお返しに頂くものが豪華過ぎて困っているのはうちらの学校だけかな?

友チョコとして渡してた手作りパック(3個入りとか)は、一体どれくらいの元手で形成されているか。主婦の方なら一目で“せいぜい百円ってとこね”と見破れるはずなのに(でないと五十人分も渡してられない)、どうしてこんなに返してくださるのだろう?毎年珍しいスイーツを味わい、男子のお名前シールまで貼ってあるラッピングを眺めながら思う。

片やモテ男〇〇からは、大衆菓子メーカーの個包装チョコ2個。しかもむき出し。これはスーパーで大袋入りを買って、単純に人数で割って配っているだけに違いない。この恐ろしいまでの差!

モテは精神安定、日々の充実、心の余裕によるさらなるモテ加速をもたらし、そしてこの通りお返しも安くあがるのだなあ。素晴らしい。

でもモテないからって、それがなんだよ。大抵の人間はそうやって生きていくんだ、それが人を成長させ…と私なんかは思ってた。ところが近年の恋愛、結婚難(?)を憂えてだか何だか、どうも男子の親御さんたちは“非モテ、あるまじ!”の思いがなんか強烈みたいなんだよな。もっと言えば”たった一人にでいいから絶対モテて!“のような願いを感じるのよ。それでの豪華なお返し…、と言ったら言い過ぎかな。

そう感じるのには、従弟がまだ大学3年なのにもう彼女と結婚を意識せざるをえない、という話に驚いたのも大きいよ。なんでも就職が決まるころには、これはという相手をがっちり確保して離さないんだとか。

女どころか男もだと!ってことは、その時期に上手に恋愛体質みたいなものを身に着けていなければ、その後はあぶれっぱなしということ?従弟は医者の卵で結構イケメン。でも“出会いなんて先にいくらでもあるさ!”とは思えないとのたまう。そんなキツイ市場になってるのか、恋愛や結婚は。

それならフツーの男子のお母さんが身もだえするのも分からなくもない。“息子がこの先良い大学や就職を決めても、その後の人生が独り身なんてダメ。それには中学時代であろうと、男として対象外の雰囲気を醸してはマズい。この先も視野に入れて、印象を上げていくにはどんな機会だって生かすわよ!“ということか。ナルホド。

でもそれは女子だって同じことではないか。安い友チョコ散布してる場合?非モテを気にかけてない私、マズいのでは。ホワイトデーって、頭が真っ白になる日でもあった。

卒業式

 こっこ、元気?

 今日、中学校を卒業しました。去年よりずっと暖かい日差しの中、入学の時と同じ道を違う思いを持って学校まで歩いたよ。

事前の練習では、おじぎの際は三秒顔を上げないようにとかダルーって感じだったのに、本番では全員全てをビシッと決め、良い式だったと思う。学年主任も聞けば涙の瞬間があったとか。怖い先生だったけど、そういうもんなんだね。

それに日頃チャラチャラの女子もスカートの折り上げ(ミニを装うため)を元に戻していて、卒業証書を受け取りに壇上に上がる時、皆同じ膝の丈でチェックのプリーツが揺れているのが印象的だった。うちは中高一貫だけど、皆それぞれに思うところはあるわけだ。

 式が終わって教室に戻ると、担任が編集してくれたDVDを保護者と共に見るのがお約束。先生が一年間撮りためてくれた行事での写真や、ちょっとした日常のかけらが披露されるというわけ。カーテンを閉めて皆一心にスクリーンに見入る。

文化祭の準備と苦労した甲斐あった表彰式、体育祭、研修旅行、、。爆笑したり、からかい合ったり。こんな人がこんな表情を見せてるんだ、この時は笑ったな~、えっ何この写真知らない!なんて騒ぎながらも見ているうちに、

“ああ、こうやっている今も、このクラスが離れ離れになる瞬間が近づいている”と思ってせつない気持ちになったよ。つまりうちのクラスは最高だったっていうこと。

 保護者の方々もいつしか涙で、ハンカチを取り出す音があちこちに増える。男子のお母さんが主に泣いているのは、やっぱり家で学校のこと何も話をしてないからだろう。こんなに楽しくやってたのね。

良いお友達にちゃんと恵まれてたんじゃない!という声が聞こえるようだった。おい!男子、心配させないで今日くらいちゃんとお礼言えよってな気持ちになる。(とは帰宅後のママの発言)でも、最後は教室にいる人が皆晴れやかな顔になって、なんだか、区切りがつくってこんな感じで、やっぱり良いもんだと思った。

 生意気なことにわれら中三でもいっぱしに打ち上げを居酒屋でやる、といったらびっくりする?もちろん飲み放題はソフトドリンクで、禁煙席があるお店を選んで行くんだよ。今回はデキる男子が幹事をやってくれたんで、二転三転の要望変更にもすばやい対応。おかげで、おいしい料理とひろびろした綺麗な店内で写真を撮りまくったりしゃべったり…。それはそれは楽しかったよ。

 家に帰ってもまだ余韻が残っていて、親は話かけてくれるなって感じ出しちゃったけどそこは勘弁してもらいたい。水泳部の後輩に貰ったチューリップを眺めながら文集をめくる。今日撮った写真をもう一度見返したりも。

ああ、卒業したんだ私。

でも、ひとつ確信したことがあるよ。それはどんなに将来AIが発達したとしても、校長や理事長の挨拶は短くはならないってこと。むしろはなむけの言葉こそ肉声で届けなければと益々長くなるんじゃないかな?それだけはため息だね。

水の門

 こっこ、元気?

昨日は中学最後の水泳の試合があったよ。思えば三年間、放課後はもれなく水につかっておったのだなあ。それがもうラストレースとは不思議な気分だ。

大きい大会は去年の夏で(シーズンだからね)、そこで一応の区切りはついていたわけだけど、今日のは小学生の部も混じる”京都府学年別選手権”だって。小学生といえども、女子は発達が早いからガタイが良くてびっくり。プールサイドで待機している時なんて、気を抜くとふっとばされそうだった。

私の出場種目は1フリ(百メートルフリー)で、長距離専門だった自分にとってはアッという間の気もしたよ。夏の大会は五十メートルプールだったから、それに比べたら片道二十五メートルなんて楽なもん?そんなことも考えつつ泳ぐ。結果はよかった。自己記録も2秒縮まったよ。よし。クラブのほかのメンバーもそれぞれに頑張ったと思う。

試合の時のお楽しみの一つに保護者やOBからの差し入れがあって、いつもスゴイんだよ(今日は少なかったけど💦)。すぐお腹を満たすパンやゼリードリンクなんかが多いけど、一度なんかゴディバのクッキーが置いてあったことがあって目をむいた。元気出るよねえ。

これ、当たり前のようにむさぼってるけど、私も社会人になったら、何かの袋を下げて後輩をねぎらいに来たりするんだろうか。打ち込んだ熱意と、辛さも思い出に変えて懐かしく訪ねてみたくなるような思い。そんなものを持てたかなって、正直、今はまだちょっとわからないけど、会場を後にする時ふっとそんなことを考えた。

でも、泳ぐことはやっぱり好き。レースの時は必死だけど、ゆったりした気分で泳ぐとき頭にあるのは、泳ぐって水の門をくぐっている感じということ。なめらかに水の扉を開いては、次の場所へ体をすべりこませる。

そこにあるのは感じるものだけで何かが見えたり分かったりするわけではないけれど、いつも何かを探すような気持ちで手を向こうへと進めているよ。

こっこのやっている陸上では、それはそれは風を切り裂いている時なのか、それとも地面を蹴るリズムだったりするのか…なんだろう?でも何か”その向こうへ”という感覚はあるんじゃないかな。また今度教えて。

さて試合が終わるとこのずぶ濡れの団体はどうするか。答えは、冬でもちゃっちゃと水着の上から水分を拭き取って、上からジャージを着てそのまま帰る。体温で水着が温まってそのうち乾くねん。親が知ってびっくりしてたけど、着替えるの面倒くさいしな。通路みたいなとこしか場所ないし。そして髪はまだ濡れたまま挨拶のひとときになる。

”え~、皆のおかげで3年間頑張れました。水泳は個人競技だと思ってたけど、練習を含め様々な場面でチームメイトの存在を感じました。運動はいくらでもあるのにわざわざ水につかることを選んだ皆、水の門をこれからもくぐり続けよう!”

星新一賞授賞式

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hoshiaward.nikkei.co.jp

こっこ、元気?

電話で知らせた授賞式に東京に行ってきたよ。会えたらよかったけど、急だったからごめんね。ああいう受賞って確定までが長いんだか何だか、結局式の2週間前まで他言しちゃダメって言われて、私ももどかしかった。

でも、一旦決まったとなると、当日には受賞コメントをお願いしますなんて言っておどかすんだもん、まったく人前で話すのが苦手だから文字でコミュニケートしてるっていうのに、おかしな具合だったわ。

今回は受賞自体も幸せなことだけど、式に出ることで気付けたことがいっぱいある。ひとつは、会場の皆さんが私に興味を持って、ひとりの人として話しかけてくださったこと。

今までは身近な大人というと親とか先生で、どちらかというと上からものを言うヒトしか、私はあまり認識できてなかったと思う。それが、好きなことの前では全然老若男女がないんだ!というのは驚きだったよ。

”名前の付け方がいいですね”とか、”どのくらいの期間で書きましたか?”って書くことについて聞かれたり、”今度お茶でもしましょう”って誘われたり(大人の人が中学生にだよ!)、と他の受賞者さんたちが私を同等に扱って下さるのがとても嬉しかった。

もうひとつは、一流の方というのは穏やかで威張らないものなんだということ。

会場には審査員であるタレントの太田光さん、作家の貴志祐介さん、宇宙飛行士の山崎直子さん、そして星新一さんの娘さんの星マリナさんらがいらしたけど、どなたも凛としたたたずまいではあるのにとっつきにくさはなくて、色々褒めてくださったり、気さくにアドバイスをくださった。

でも強烈なオーラがあって、もうこっちは勝手に姿勢正しくなっちゃうし、日々精進します!なんて殊勝なことを誓っちゃうわけ。そうさせるもんがあるから。

テレビやなんかで見てる押しの強い人や有名人が一流とは限らなくて、むしろ逆なんだと思った。これにはぱあっと視界が開けるような気がしたよ。これからもそんな人にもっと出会っていきたいなあ。

それにしても、そこにいる皆さん本が大好きということで、ひとつの愛で一致している空間っていうのは何と言っても心地いいよね。だからとても忙しい一日だったけど全然疲れなかった。きっと本好き周波数みたいなものにチャンネルがぴたっと合って、体も心もほぐれてたんやと思う。

ひさしぶりの東京なんで余分にもう一泊して、日曜日はいわゆる女子中高生の聖地?竹下通とか行ってみたけど、何なん?あれは。あんな混んでるとこに買い物行くん?

観光客とおのぼりさんオンリーかもしれんけど、恐ろしい熱気やな。そんで、お小遣いいくらあっても足りひん気ぃした。私は日ごろそんな物欲に流されへんほうやけど、なぜか臨時買い物スイッチが体に付着しててやな。やばかったわ。

電源を切る勇気を持つためにも、自分を掘り返してせっせと字やら何やら書いてなこりゃ、いっぺんに流れていってしまうと思たわ。あ~魅惑的、東京。

 

電子の小瓶

こっこ、元気?

今日は悩ましい話をするね。それは友達がツイッターで知り合った男子と会おうとしているという一件。今じゃ珍しいことではない、というか普通か。中二くらいから”今度フォロワーさんと会うんだ”みたいな話がお弁当食べながら耳にはいってくる感じのことが増えてきた気がする。

聞いてみると、どうも自分が発信してることについて共感を寄せてくれる人と会う、という滑り出しが多くなってきてるんだな、今は。

でも、それって意外なようで尤もかもしれないね。数あるつぶやきの中から見つけてくれたアナタってことだよね。出会い系やコミュニティでの、プロフ見て近寄ってくるのとは違うんだよね?

自分から能動的に我が身をアピールしたことに、鼻息ひそめて反応してくるのと違うのよね。アピールに対するアピールがあって、お互い値踏みしながら会うようなハントの匂い、無いんだよね。

で、いきなり自分を全肯定のスタンスでお伺いがくるんだよ?ネットの海に捨てたと思った一言を拾いあげて寄り添ってくれるんだよ?

その拾い上げてくれる感じ、私はずっと迷子だったんだけどアナタが見つけて掬いあげてくれた、みたいなその感じって、ほら昔ビンに詰めて手紙を海に流したあれになんか似てない?

見つけてくれて、誰かから返事がきたらとてもドラマチック。でも海に流してたんじゃほぼ誰の手にも渡らない。が、それでよかった。そんなに都合よく自分の内面に反応してくれる、夢みたいな展開ってあるわけないや~ん、ってハアってタメイキついて、私は何考えてんだって海に石投げて、それで良かったんだよ。

それがネットが出来ていきなり確率がぐっと上がった。流してるこっちは昔も今もそう思い描くことは変わらないのに、出会える確率だけが恐ろしく上がったわけだよね。

私はそこが怖いんだよなあ。出会いのツールとして大いにあってよしと思う。でもそこに乙女チックは実際ゼロですぜ!なことがまったく共有されてないやん。

ある程度リアルでつきあった経験があったりしたら、フツーの男がこんなマメに返信するか?そんなに暇がある人ってどうなん?って自然に思えるやろうけどさ、海の小瓶少女たちには、まだそこ見分けがつかんのではないんかって、それがなんl気持ち悪くて気になるんやな~。

でも正直、やってみたいファンタジー大好きな私もいる。私ら思春期っていう一番重たいゼリーみたいな時間の中にいるわけでもあり、なんか荷物をちょっとでも持ってくれるような人とお話ししてみたいという気持ち、確かにある。

脳が大きいからこそ夢を描く、これ人間の証でもあるんではないやろか。それは絶対あかんことやろか。

かくして気持ちは引き裂かれながら、とりあえず聞いた話に2秒で”ヤメロ”とは言うたけどね。私はただのおせっかい。もう次からは教えてもらえへんカテゴリーに仕分けされてるんやろな。ママには話して、私なりの手も打った。友よ、無事生還を祈る。

制服

 こっこ、元気?

昨日家に帰ったら、新しい制服のブレザーが居間に吊るしてあった。そう、ごめんなさい。やはり私もなんちゃって制服を着用する女になってしまったのです。

うちの学校は中学までが制服で、高校からは私服でいい。それなのに、その昔先輩方が涙の苦労で勝ち取ってくださった、好きな服を着て行く権利を手放した訳だ。

そういうバカなことをするのはひとえに私がズボラだからです。毎日着て行く服を考えるなんて、そんな面倒なことできるもんですか。

ところが驚くことに、周りの女子は去年秋から既に制服妄想ワールドに入っていたらしい。校門でブランドのスタッフがパンフレットを配っていたというのだね。知らんかった。

うちら水泳部、練習終わったらもう閉門ギリギリ、頭も濡れたままで荷物ひっ抱えて飛び出してきてる。そんな輩は相手にされておらんらしいのだ。あくまで、放課後をおしゃれや男子の話題で埋め尽くすおしゃれさんが目当ての配布。

そして彼女らは、何色のブレザーにするか、スカート丈はどうか、襟元はリボン型かネクタイか(以後延々)語り尽くしてきたようだ。面倒くささからではなく、文化としての”なんちゃって制服”。そんな複雑な問題、テストだったらシャー芯折れてしまうわ。

それなのに、なぜか乙女らは”服なら何時間でも見てられるよね~”とかのたまうのだよ。同じヒト科なのか、謎だ。私は本屋とアニメショップなら何時間でもよだれを垂らしていられるがね。まあそんなことは言わない。

でも、思い起こすに、小学校の卒業式で既にその兆候は見えていたんだった。AKB48のようなプリーツ(?知らん)のチェックのスカートに、胸元リボンのぴったりめのジャケット。デパートの売り場にも、当日の式場にも溢れておったではないか。朝5時起きで髪をセットした袴姿もいたしな。

そんなチビしゃれ族が今大きくなって”JKは女子の人生において最強のひとときだ!”と爪をといでいるという訳なのだな。確かに女の私から見ても、可愛い小がこの衣装に身を包んでいるのは良いものだ。

しかし条件があり、あのコスチュームから出ているのは、ちっさい顔とデカ目と、サラサラの髪が必須。そしてミニスカートからはシャーっと真っ直ぐな脚が覗いていなければならぬ。そのくらい分かっているのだ。

だから、制服にする動機は違うが、とにかく地味に徹して選んだ。スカート丈は43と47の二択で、いわゆる世間が萌える丈は43㎝(?)。”こんな短いスカート3年もはいてるから日本の女子は冷え性なんじゃ?”というママの考察はおいといて、当然ここは身の程を知って47㎝にしました。

とにもかくにも、春からはこのいでたちであの通勤電車に紛れるわけや。まずは電車の中でうっかり足を開くことのないよう、気いつけなな。でも、こっこはおしゃれさんやし、存分にJK文化の継承に貢献してや。そう、これ私の中の男子の部分からのリクエスト。

お見舞い

 こっこ、元気?

私はインフルの後、ベクトル上向きだから元気しかありえないんだけど、おじいちゃんが入院しちゃった。もう癌が全身にひろがってるんだって。それで、今までより強い抗がん剤を入れるために、病院でケアが必要になって三週間の予定でとにかく入れと。

八十八歳になるおじいちゃん、最初は薬に慣れないのか体も気分も荒れて(?)会えないみたいだったけど、ママがこの先まともに話せるか分からないというのでテスト前だけどお見舞いに行ってきたよ。大きな病院に行くのは久しぶりだから、”マスクをかけて”の張り紙があちこちにあるのに緊張した。

正直な感想を言うと、”早く帰りたい”の気分で一杯だった。

ベッドは他人と同室の一番奥で、当たり前だけどやせ細ったおじいさんがいっぱい。窓のそばだったんだけどカーテンが閉め切られて薄暗い雰囲気。おじいちゃんはベッドで体を起こしていて、何とか話は出来るみたい。でも、挨拶してからふと手を見ると、赤黒い染みみたいな模様が広がってるの。副作用ってこんなになるの?言葉が出なかった。

ものが飲み込みにくくなるからご飯もおかゆ中心で、そのせいか小さくなった肩が私よりもうんと低いところにあった。

本当はこういう時何て声をかけるのがいいんだろうね。テレビで見るみたいに花瓶の花を取り換えに廊下へ出たり、リンゴを向いたり、実際はそんな風に画面は切り替わっていかないんだよ。しんどい病人と気まずい見舞客。その間で

滅茶苦茶気を遣うおばあちゃんとママ。なんか気の利くことを口にしたいと思ったけど、今の私の人間力ではそれもまだ無理だった。いっそもっと年齢が低くて泣き出してしまえれば自分も周りも救われるかもしれないんだけど。私には、ただあの時間をじっと受け止めるしかできなかったよ。

”あんまり長いと疲れが出るから”とおばあちゃんが気を利かせてくれて、病院を出た隣のカフェでシュークリームを食べることになった。おばあちゃんはいつもここで気分をリセットして帰るんだって。

おばあちゃんもいよいよ八十五歳。自分もいつ病人になるか分からないのに、頑張ってて偉いな。病院から帰って家のあれこれ一人で片付けて、また同じように明日ここに来る。なんか強いってこういうことなんかな、と私は思う。

帰りはママと自転車で、付かず離れず家まで漕いで帰った。まだそんなに市内の地理、詳しないしな。それにしても病院まで自転車で行けちゃうってどんだけコンパクなん、京都。繁華街も公共施設も銀行も、みんな自転車で頑張れる距離。東京やったらこっからの帰路でもう一疲れするとこやなぁ。

走るうちになんかモヤモヤも晴れたけど、この距離にあるということを無駄にしんように、次はちょっと強い心で会いに来たいと思た。せめて病人に気を使わせんでいいくらいに、て。ほんまに。